ラプラスの知らない世界

 

 この世には可能性という概念がある。道なりに歩いている際に丁字路へぶつかった時、右を選ぶか、左を選ぶか――そういった選択肢と、その選択肢の取捨による展開のことを可能性と呼ぶ。

 選ばれた可能性は現実となり、誰もが経験する世界となるが、選ばれることなく切り捨てられた可能性は一体どうなるのか。消滅するのか、そこにとどまっているのか、あるいは――。この疑問にひとつの主張が投じられた。その主張の内容は、ざっくばらんに説明するとこうだ。

 切り捨てられた可能性はこの世界と似て非なる世界、すなわち“パラレルワールド”となって無量大数と存在し、今この時もなお増え続け、その数は数えること能わず、という。

 その主張はリシロと呼ばれる可能性の精霊(厳密には精霊ではないが、歴史の流れの中で誤って精霊として信仰され祀られることになってしまった運の悪い知人だ)への信仰と学術的に結び付けられ、一般に広まるに至った。ただ、広まりはしたものの、それによる人々の生活の変化はなかった。当然といえば当然のことだ。自分たちの与り知らぬ領域の話など、ただの雑談の種にしかならない。そうしてこの主張は否定こそされなかったものの、人の噂は七十五日と言わんばかりに忘れ去られていった。――しかし、その存在を見逃さなかった者がいた。

 自分の知る世界と似て非なる世界。その存在に誰よりも早く気付き、パラレルワールドへ介入するための情報や手段を着実に手に入れていた存在。巷では変人として有名な、マクスウェルと呼ばれるその青年(本当に青年なのかどうかと言われると肯定はできないが、少なくとも外見は青年なのだからこの場ではそう通すことにする)は、ひとつの計画を打ち立てていた。

 パラレルワールド干渉個体製造計画――通称、エルヴィン計画。

 乱暴に要約すると、時空の隙間をすり抜け、パラレルワールドが集うと学説上考えられている“世界樹”から、現在のこの世界とは違うパラレルワールドへ飛び込んで介入できる個体を作る……というものだ。

 管理局に提出する書面上において、何のためにそんなことを、という研究目的を問う項目への回答には“パラレルワールドへの干渉を可能にすることで無限の可能性の取捨選択が云々”とそれらしい文章を並べただけで、本人曰く、真意をそのまま提出はしなかったらしい。とはいえ、知識欲の塊のようなあの男のことだ。真意など、想像に難くない。――きっと、知りたかったのだ。世界の情報をすべて手に入れている男が、未だ存在していた未知に胸を躍らせているのだ。そう考えて、まるで子どものようだなと私は嗤った。

 数々の構築を繰り返した結果出来上がった“それ”は、計画の通称名をとって“エルヴィナ”と名付られた。エルヴィナは作り親であるマクスウェルによくなつき、私もどうやら彼女に気に入られたようだ。見た目は何の変哲もない年若い少女で、この娘が世界樹で繋がれたパラレルワールドを飛び回るのかと思っても実感は湧かないが、改めてその事実を噛み締めた私はただ羨みを抱いた。

 私の知る未来や過去、そして現在は、すべて“この世界の顛末”であり、パラレルワールドの未来や過去、ましてや現在など知ることはない。それゆえに、興味が無いのかと言われればそれは嘘になる。私は知らないことなどない。……しかし、それもこの世界では、と限定した状況の話であり、先程も触れたようにパラレルワールドの運命など何一つとして知らない。すべてを知ったつもりでいた私は、エルヴィン計画の進行によって突然“何も知らない存在”に変貌してしまったのだ。あまりに唐突であることと、ことが大きすぎることとが重なって、その事実を一息に飲み込むことは、できなかった。

 

 運命はたった一つ。それを揺るがすことは不可能であり、運命を改変すると謳う私の職業“未来屋”(とは銘打っているが、簡単に説明するならば単なるひまつぶしという一言で片がつく)も、“運命を改変する運命”に則っているにすぎない。過去を変えたいと嘆願する誰もが、“これで運命を変えられる”と思い、成し遂げた先には“運命を動かした”と達成感に満たされた顔をしている。私はそれが、憐れでならなかった。しかし繰り返されるたびに憐れみは嘲りに形を変え、運命というものに走らされ続ける人々を見ては厭世的な思考が脳裏をよぎるようになり、今となっては何をするのも億劫なものだから、姿を錬成することすら放棄してふらりと漂うこともある。こういう時、概念という自分の存在は実に不自由がなく、楽だと思わされる。

 ともかく、運命はたった一つなのだ。運命である私が言うのだから、それに間違いがあるはずがない。いや、あるはずがなかったのだ。そんな明快でシンプルな答えが、揺らぐことなどありはしなかったのだ。可能性というものは確かに選択肢を突きつけてくるが、それでも運命はその選択肢の中から――時には選択肢になかった飛び入りの可能性から――たったひとつだけを選びとり、導く。じゃんけんをする時に勝つか負けるかが百発百中で分かる人間はいないが、運命は百回のじゃんけんのうち百回すべての勝敗を既に定めている。そのように、すべては運命づけられている。しかし“パラレルワールド”の存在は、そのたった一つの明快でシンプルな真実を、揺るがせるには十分すぎる案件だった。

 パラレルワールド。この存在はつまり、可能性の選択分だけ未来があり、その枝分かれした未来にそれぞれ運命が宿っているということになる。運命である私が知らない、私とは違う運命がそこにはある、……のかもしれない、のだ。それを考えると、この世界を眺め歩くたびに抱いていた諦めに似た気持ちから、隠しきれなくなるほどの落ち着かない心象が胸に宿るようになった。ふとそれを自覚した時、ああ、これではマクスウェルの子どものような知識欲を嗤えないな、と深い溜飲を下げた。自嘲という言葉が、その吐息には相応しかろう。

 

 マクスウェルによってエルヴィナが作られて以降、私はマクスウェルの研究所に時折顔を出すようになった。

「珍しいですね、ラプラス。まあ、エルヴィン計画は貴方にとって無関係ではありませんから、不思議というわけではありませんが」

 マクスウェルは常日頃から変わらない三日月のような口で笑いながらこちらを見たが、モニターに映し出されるデータの演算を止めることはなかった。人の話を聞いていないわけではないのは知っているが、まったく、どんな状況でも何かしていないと落ち着かないこいつの性格は、病的といっても支障はないように思える。

「……。お前の気持ちが少し分かっただけのことだ」

「私の気持ち、とは?」

 マクスウェルはデータファイルを閉じると、ここでようやく手を止めた。その表情はやはり、顔に張り付いたような笑顔だった。

「すべてを手にしている、すべてを知り得ている、そう思っていた。だが、突然目の前に“しらないこと”が現れた」

「楽しいでしょう?」

 目を細め、口をすっと閉じた顔が少しばかり傾く。ここで初めて知った――いや、前々より私が勝手に決めつけていた内容と一寸も違わぬ内容だが――事実がひとつ。こいつは、新たな知を得ることで“楽しんで”いるということを自ら口にしたのだ。

 “たのしい”。その言葉を投げかけられた今、すぐさま相槌を打てる程度の“個としての感情”すら私は持っていなかった。同様の状況に何度も身を置いているマクスウェルが“たのしい”と表現するならば、それは確かに彼にとっての事実で、私への同調を確認する言葉だ。しかし、足元さえおぼつかなくなりそうなほどの胸のざわつき、自分には無縁だと思っていた未知という状態を体感する奇妙さ、すべてを把握しているつもりでいた状況の崩壊、それらを、“たのしい”という言葉ひとつがすべて伝えてくれる、というようには思えなかった。

「楽しい、かどうかは定かではないが。ただ、…………。――生きた心地がする、と言えばいいのか。こんな気分になったのは、初めてかもしれない」

「そうでしょう、そうでしょう。ああ、ラプラスがそんな言葉を口にするとは! これはもう、パラレルワールドさまさまですねえ! おめでたいことですから、今宵は研究所を挙げて祝杯を上げましょう。ラプラスも来るのですよ」

 マクスウェルはえらく気分がよさそうにそうのたまっていた。今晩は研究所の所員と研究対象たちで揃って、祝杯という名のティータイムを迎えることになるだろう。それが、私の知る運命だ。……久方ぶりに快く迎え入れることのできる運命に出会え、少し破顔した。

 

 パラレルワールドに対する世間の興味や好奇心の的になったエルヴィナは、訪れたパラレルワールドでどんなアクシデントが起こるかわからないという想定のもとに必要となりそうな知識と技術を頭と身体に覚え込ませる期間に入っていた。……と、こんな表現をするとまるでどこかの国にスパイとして潜り込むエージェントにでもなりそうな勢いだが、その実情を言えばそのようなものではなく、自炊能力や身体能力の向上などを進めているだけの、――まあ、言ってしまえば“至って普通の教育”だった。ただ、作り親が情報の塊であるマクスウェルということから、運命など読み取らなくとも容易に想定できた案件がひとつある。

「ラプラス、お願いがあるのだけど……。ええと、お香を分けてほしいの。で、出来ればロータスの」

 ……マクスウェルはエルヴィナの頭脳に、異常なまでの情報量を注ぎ込んだ(それも必要不必要の選別もなく)、ということだ。

 ひとつ。私は名前を自称したことはなく、ラプラスという名前はマクスウェルが勝手に呼んでいる名前であり、マクスウェル以外の人物が私をラプラスと呼ぶことはない。ふたつ。エルヴィナとの会話の中で私は“香を所持している”といったような内容の発言は一切していない。みっつ。ロータス香は私が所持する香の中でいちばん消費量が多い(すなわち、切らさないようにいちばん多くストックしている)香だ。

 文句を言うほどのことではないのでマクスウェルに苦情を出すつもりはないが、教えた覚えもなく、知り得そうもないことを言葉にされると驚きもする。パラレルワールドのことに気を取られて、私が今存在しているこの世界の運命のことを失念していたことにも原因はあるが。

「ロータス香なら、ストックを少し持ち合わせていますよ。いいでしょう、お分けします」

「わあ、ありがとうございますっ!」

 腰から提げた鞄を開き、薄紅色で彩られたスティック状の箱をひとつ手に取って彼女に手渡した。受け取った箱を大事そうに手で包み、目を細めて顔を綻ばせるその姿は本当に“ただの少女”だ。ここがマクスウェル研究所でなければ、間違いなく一般人と間違えるであろうほどに。

 ロータス香の礼として振舞われた茶は特別美味ということもなく、かといって飲めないほど酷いものというわけでもなく、“普通”だった。これから先、また振舞われる未来は見える。世界を飛び回るのに茶を淹れる技術が必要なのかは甚だ疑問だが、マクスウェルの行動に深い意味が無いのは重々承知しているのでほどほどに思索をやめた。

 

 こうした日常のさなか、彼女が私の持つ“ディ・ゼラの涙”を読ませてほしいと申し出てくることが増えた。“ディ・ゼラの涙”とは歴史書として存在する魔法書のことで、そこには過去に起きた事実が記されており、現在において何かしらの事案が発生すれば、本にかかった魔法がその事案について本の中で言及をする。未来については書かれておらず、空白のページが語ることはない。

 単純にディ・ゼラの涙を読みたいのならば、“神の書庫”と呼ばれる遺跡に腐るほどある。だが、エルヴィナは神の書庫に一度も行ったことはないらしく、ただ私の持つディ・ゼラの涙を読みたいと頼みに来る。その理由は薄々感づいているが、彼女の口からはっきりと断言されたこともなければ、そう判断するに至る未来も見えない。しかし、理由が不明なままであれ、私はディ・ゼラの涙の貸し出しを断ることはなかった。……自分の知識欲のための行動かと問われれば、否定はできない。

 ――運命が具現化した存在である私の所持する“ディ・ゼラの涙”は、神の書庫に所蔵されているそれらと違い、“未来の運命も記述されている”。エルヴィナが私の持つそれを借りようとするのは、おそらくはそれが理由であり、その事実を知っているのはマクスウェルの入れ知恵からであろうということも、まあ、なんとなくは想像がついていることだ。

 “開けてはいけない箱を開いてしまい、中から多くのものが溢れ出たが、最後のひとつが飛び出すことはなかった”。この寓話、解釈の一説には“最後の一つは予兆である”とするものがあるらしい。未来を知れば絶望することになるが、予知能力を人が得ることかなわずという結果におさまったことで、絶望せずに生きられるとも、無駄な努力をすることになる羽目になったとも言われているそうだ。

 過去、未来、現在のすべての運命を知る私は果たして絶望していたのかと問われれば、返答に困る。すべてを知り得ていることで退屈極まりなかったことは確かだが、絶望という“虚無”に囚われるほどに無気力になるようなこともなかった。ただ、それは私の場合の話であり、今この部屋でまさに未来を読んでいる彼女が絶望するかしないかは別の話だ、とは思う。軽々しく未来など見せない方がいいのだろうが、彼女がいつか私の知らない世界を見るように取り計らうであろう未来を見たことを鑑みるに、その礼として香の一箱では釣り合わなさすぎる、という思いもあったにはあったかもしれない。

 彼女は目を輝かせながらそれを読み、表情をころころと変えた。幸福な未来の記述に顔を綻ばせ、凄惨な過去の記述に落涙する。どこにそのような感情を引き出す内容があるのか、私には理解はできない。幸福な未来も、凄惨な過去も、普遍的な日常も、私にとってはさして変わらない。ディ・ゼラの涙は事実をただ正確に記述しているだけの本だ。私はそれの内容をすべて知っている。私が感動するに値することも、落胆するに値することもその中にはない。それが運命というものだ。

 

 ……長らく、可能性という概念が具現化した存在であるリシロとは、いろいろと噛み合わないことが多かった。すべては運命づけられているという私の主張と、定められた法則の中で人が運命を選んでいくというリシロの主張は、真っ向から対立しているといっていいほど理論が違っていた。別にそのせいでリシロとの仲が険悪になっただのということは一切ないが、ただ、議論を交わせば交わすほど“お互いの存在は相容れない”という事実がはっきりするだけだった。しかし、今なら少し、議論の展開に違う流れが起きそうな気がした。

 リシロ――“可能性”が差し出す選択肢を、私――“運命”が選ぶ。選ばれなかった選択肢はそこで終わり、ただ選ばれないために生まれた無益な項目だったということになっていた。それがどうやら変わりそうだ、とぼんやり考えた。もしもパラレルワールドというものが本当に存在するならば、選ばれなかった選択肢はそこで途絶えたわけではなく、この世界と似て非なる別世界として生まれ、その先で私の知らない運命が綴られていくのではないか?

「ね、ね。いつもこれ、読ませてくれてありがとう! お礼に、ラプラスの知らない世界に連れていってあげる」

 思考に耽る私を、この世界で二人しか使わない名で呼んだ彼女の言葉は、唐突であることと内容がぶっ飛んでいることの二つが重なり、一瞬意味が分からなかった。もしかするとその時の私は、間抜けな顔をしていたのではなかろうか。

 意味を測りかねる私をよそに、彼女は私の右手を引き研究所の外に連れ出した。この未来を私は知っている。知っているのに、なぜか胸騒ぎがする。それの意図するところが、好奇心なのか、混乱なのか、恐怖なのかすら、今の私には判断する余裕がなかった。

 研究所の建物から少し離れた庭の中、エルヴィナは空いている右手を開いて空に差し出した。やがてぼんやりと手のひらから小さな光が現れ、少しずつその光量を強めていく。彼女は一度私の方へ振り返り、その左手で私の右手を掴んだまま、強い光の中へ歩き出すようにして消えていく。私の視界に映る彼女は握っている手だけだ。放すことのないよう少しだけ力を込め、私も彼女の向かった先へと歩みを進めた。

 光の中を歩く間、眩しさに目を細めていた。今自分がどこを歩いているのか、それすらも分からないほどのただただ白い世界という印象だった。やがて光が落ち着きを取り戻し、そっと目を開いたその時には、そこは先程まで立っていた研究所の庭だった。――が、私の知るそれではなかった。得も言われぬ猛烈な違和感があらゆる感覚から襲いかかり、それを受け止めるのに精一杯だった。

 “異質”。

 見える景色は私の知るそれであるのに、私はこの世界を“識らなかった”。

「ね。ラプラスの知らない世界だよ」

 彼女は私に振り向き、笑顔で言った。